素直に頼られる嬉しさ

#せっかくだったので週末行った花火の写真をもう一枚。
人に素直に頼られると僕は嬉しい。きっと人に必要とされることは誰にとっても嬉しいことだと思う。それは純粋に自分が必要とされているという、自分の価値が他人に認められている嬉しさであり、ある意味その人の弱みを見せてくれている、自分を信頼してくれているというように感じられてその気持ちが嬉しいからだろう。
だから誰しも素直に人に頼っていいんだと思う。
基本的にメンバーとふたりでProjectをまわしているのだけどすべての面において僕が優れているわけは(全く持って)ない。メンバーは、業界によっては僕より深い知識と洞察を持っているしチャートを描くのも早くてうまい(すなわち頭の中が筋道立ててキレイになっているということだ)。
僕はメッセージを支える必要最小限のコスメ(資料の化粧)しかしないのでインパクトやわかりやすさという観点からすると少し不親切な資料になってしまう場合がある。自分のプレゼン資料であれば問題ないと思っているのだけど他人のプレゼン資料となると少々シンプルすぎてしまう。かといってどうもごちゃごちゃした絵を入れるのが得意になれない(自分本位)。
そんな時、メンバーに相談してみる。”ここをこう、もっと絵的にぱっと一目見たときにわかりやすくしたいんだけどうまいやりかたってあるかなー?”(超あいまいなあらそのまんま相談)。するとメンバーがすごい嬉しそうに答えてくれる。その姿を見ていると僕も嬉しくなるし、もっとお互い補完しあえるところは補完しあっていかないとなって思える。
結果として自分ひとりでは生み出せないいいアイデアでありいい資料ができあがる。
結果として1 + 1が2を大きく超えるときってそういう補完関係から新しい価値が創出されることを指すんだろうな、といまさらながら実感。
そして何事も一人でやってしまうことのもったいなさも実感。使える(というと言葉が少々適切でないが)メンバーであり人の頭であり手足でありは、自分のものも含めてもっといろんなところで使ったほうがいいのだと思う。
自分ひとりでできること = 自分の価値、人に頼ったアウトプット ≠ 自分の価値、っていう考え方をしてしまう人がたまにいるけど、これはとてももったいないことだ(^^)
もっと人とつながっていきたい。そのつながりを大切にしていきたい。

都合のいいもので

日曜日は、来週末に備えて買っておきたいものがあったので、お店を決めて新橋へ。地図を見ながらうろうろしてもなかなか見つけることができず、お店へ電話。
”日曜日は休業致しております…。”
なるほどもっと早く電話しておけばよかった。と思いつつ久しぶりに新橋~銀座界隈にでてきたのでぶらぶらして帰ろうと思い銀座方面へ歩きつつ興味のあるお店をのぞく。店頭はもう秋冬物が徐々にでつつある。店員さんと話をしてみると、最終的に冬物が出揃うのは11月とのこと。でもその間に売り切れてしまうシリーズもあるらしい。なるほどなあと思いつついくつかお店をまわる。
なんとなく秋冬に着る上着と、秋の初めに一枚でさらっと済ませられるようなうすでのニットかシャツかほしいなあと思っていたのだけど(こういう買い物はかなり久しぶり)、いざ見てみるとどれを見てもよしあしあってなかなかぴんとこない。
服に限らず結局一目ぼれで決めてしまうことが多い僕は、買うことが目的化して中途半端なものを買ってしまうことはめったに無いが、一目ぼれしてかった熱が後に冷めてよくよくみると中途半端なものを買ってしまっているということはたまにある(どうなんだこれ)。しかし大体のものは寿命がくるまでずーっと使う。たまに寿命が過ぎたように見られても”まだいける、まだいける”と思って使ってしまうこともある(多い)。
そんなこんなで歩き回っていて、最終的には”ぴんっ!”とくるものに出会った。秋冬の上着。サイズを1-2こ試着して購入。結局見てから買うと決めるまで3分くらいだろうか。着てみてしっくり、一目ぼれだった。
都合のいいもので、週末花火を見ているとき、帰り際は、もっと夏が続けばいいのになあって思っていた。夏が好きだし、暑い中もっと浴衣を着て花火を見に行ったり海に行ったり山に行ったり、色々と満喫したかったし。
でもこれと出会ってからは一転。秋冬の到来を待ち望んでいる自分がいた。早くこれを着て肌寒い空気・高く感じられる空の下どこかへ行きたいなと。紅葉でもなんでも。温泉も捨てがたい。Open cafeでホットコーヒーでも飲みながら本を読んで時間をすごすのも気持ちがいいだろう(京都の新風館を思い出す)。
そうこう考えたいたら京都に行きたくなってきた(適当)。
単純に気分が変わってしまう自分を面白く思いながら、出会った上着の入った袋を抱えて帰途についた。そしてジムへいって汗を流してきた。相変わらず、頭の中を空っぽにして走ったり筋肉に負荷をかけたりすることに集中できる時間は大切にしている。こういう時間、必要だ。
そういえば買い物の中でめがねも見てきた。最近黒ぶちのめがねがほしいなーと思っていたのと、どうも視力が下がっているかもなあと思っていたので検査もかねて。結果、いいめがねを発見して、視力も若干下がっていることがわかったのだけどどうしようか。
僕に黒ぶちめがねは似合うだろうか(顔を知っている方、想像してみてくださいm(_ _)mどうでしょう?)
久しぶりに(?)とりとめもなくつらつらと書いた(普段から意識してもとりとめなくなってるのに)

夏の終わり

土曜日は花火を見るために茨城の花火大会に足を伸ばす。天気が心配だったのだけど幸いの曇天。雨は降らなかった。今年はまだ一度も浴衣を着ていなかったので、そして花火大会に直接足を伸ばすことをしていなかったので、その両方を一度に叶えることができた(^^)。秋葉原からつくばエクスプレスにのって向かったのだけど、会場に着くまで若干周りの雰囲気からは浮いていた。その微妙な雰囲気と、僕の浴衣の丈が心なしか短かったことを少々気にしながら会場へ向かった。
花火はとても良かった。目の前であがるし、人もそんなに込み合ってない(よくよく見るとまだ二回目。これから回数を重ねるにつれて混んでいくのかな)。少し規模が小さくなった淀川花火大会のような感じ。そんなに暑くも無かったので程よい涼しさの中心地よく時間をすごすことができた。
そんな涼しさが嬉しくもあり、また順調に終わりを告げつつある夏を改めて感じさせてくれて、少し寂しかった。花火の光と音とちょっとしたお祭りの雰囲気を満喫して、最後の夏を満喫した。
本当にあっという間だ。
次は秋、なんだか夜の空気が切ないこの季節もまた楽しんでいきたいと思う。(横のテレビから、明日あさっては夏日復活といっているが・・・まあ徐々にということで)
#PCを変えたら写真編集ソフトが無くて写真をUpできない(サイズ編集ができない)。また移行してから花火の写真をあげたい。

自分は何を望む?

自分の意志と言葉と行動の間にGAPがでてくるとき、自分の意志の強さ、それが”本物か”っていうのが試されるんだろうなと思う。
自身に対する範囲で言えば、

その志に重なる行動ができる自分でいることを望むのか。
その志を言葉で主張できる自分でいることを望むのか。
その志を胸のうちにぐっと掴んでいられる自分でいることを望むのか。

今の自分が何を望んでいるのかは、心と行動を見ればわかる。
自分の理想に思いを馳せること。具体的にすることも大事だけど、今この現実のなかで自分の行動がどうその理想に結びついているのかをちゃんと把握することがまずは大事だとつくづく感じる。
で、”本物か”どうかなんていうのは考えてどうこうするものではなくて、自分の行動からみちびかれる姿っていうのが自分の意志を反映した姿であり志の高さなのだろうとも思う。
もう1つ大事だと思うのは、自分の姿の理想もいいけど、もっと大きくそんな自分がいると周りの人や環境がどんなふうになるのか/したいのか。理想に重なった自分が周りに対してしたい貢献、その結果周りの人にどうなってほしいのか、っていう自分を取り巻く世界に対する理想を考えること。
たまに、自分の理想を強くもつあまりか、周りのすべてが自分が理想に重なるための手段だというように言う人/振舞う人がいる。そういう人をみると複雑な気持ちになる。(僕もそんな時期あったようななかったような・・・)