で僕は何を持っていた?

Communicationって難しいと思った。何なんだろう。話の目的とかそのために話し合うこと・はっきりさせたいこととか、そのための話の持っていき方とか、そういうのが一切使えないCommunication。
使えない理由はなんだろう。心のどこかで、ここでアタマを使って話したら何かが終わってしまいそうな気がすしたから?そもそもそんな使えるアタマを持っていないから?どこかでアタマを使わずに心のありのままで言葉を交わしたいと望んでいたから?
感情的になることは滅多にない僕なのだけど、話の流れの中で声を荒げてしまう。
自分が理解・納得するために必要なPartsを相手に吐き出させようとしてしまう。言ってることの意味がわからない、理解したい、そのためには言いたいことはお互いOpenに言い合うべきだし明確に立場の言うべきだ!と、ばらばらだけど大事な何かを伝えようとしている言葉やその後ろにいる人間を困らせてしまう、困らせることを正当化してしまう。
感情的になると選択的にものを聞くようになる。自分の中で相手の話を選択して聞いて、自分の主張を組み立ててしまう。傾聴する余裕が無くなる。言っていることは理解できる。ただ納得できない。というときに相手にどう説明して良いのかわからなくなる。その前に僕を理解してから話をしてよ、と自分中心になる。自分が相手を理解しているかは棚に上げて。
自分の考えを理解してもらう / 相手を理解するためにはOpenにディスカッションする、互いに意見を主張し、互いに意見を聞くことができればいいのだと思っていた。日常ではそういうことをやってきていたしそれで互いに理解し合い、お互いに高めることができていたと思う。
…なかなか難しい。
情ってものがないとか、人の心がわかってないとかって言われたらつらいし多少寂しくもある。人の言葉で傷つく心は持っているんだけど…(^^;
じっくりいこうと思います。

その手に何を持っている?

木に釘が打ってある。
金槌を持っていたらそれを叩こうとする。くぎ抜きを持っていたらそれを抜こうとする。彫刻刀をもっていたら釘を気にせず何かを彫ろうとするかもしれない。かんなをもっていたら釘を避けて気を削り始めるかもしれない。
道具に精通していればしているほど上記のように振舞う。金槌に精通していたら釘の角度や打ち具合が真っ先に目に付く。彫刻等を持っていたら木目や木の質といったものが目に付く、どういう形ができるかすぐイメージが始まる。
道具は物理的なものにとどまらない。イメージや考え方も同じ。
何らかの対象を眺めているとき、その手に何を持って見ているかを意識すると結構眺める前から持ち物を決めいることがあることに気づく。
そして、目的を達成する前提として、その手に持ったものを使う必要があると思い込んでいることに気づく。そしてその思い込みと相手のGAPに悩んでいる場合がある。
道具を持って相手を見るのは、仮説を立てる時に大事なことだけど、あくまでそれは仮説。時には見る角度もそもそもの扱う目的も、そしてその手に持っているものも、全部ほっぽって考えてみると案外すっきりと新たな方向がみえてくる。