KKD

KKD。それは、K(Kan(勘))、K(Keiken(経験))、D(Dokyo(度胸))。
かつて考え方としてロジカルシンキングがはやりだしたころに、どちらかというとネガティブに扱われていた3要素。
物事を判断するときにKKDだけに頼るのはいかん、と。
物事を考えるときに、(そもそも考えもしないで)KKDではいかん、と。
でもここにきて、KKDの大切さを感じる。
おそらくなのだけど、ロジカルシンキング等のものがはやりだして、誰しもがそれをかじり、論理的に簡潔に話をできることが、そもそも会話をすることの前提条件となりつつある中で、間違えた身に付け方をしてしまった人が多いのではないだろうか。
ロジカルシンキングによる物事の判断は善であり、KKDによる判断は悪であるというところを、なぜか、KKDは悪であるという解釈になってしまっているような気がする。(そもそもロジカルだろうがKKDだろうが、継続的に結果を出し続けることができるならそれでいい。)
結果、こういうタイプの人が増えてるような気がする。
頭はいい。論理的で物知りで、知的好奇心も強い。
ただ、”決められない”、”自分の”判断で前に進めない。
いつの間にかロジカルシンキングは2のネガティブな要素を生み出すようになっていたのだ。
●ロジカルに(機械的に?)判断して、No、無理、と言ってしまう過剰な防衛意識。
●自身の過去の経験に基づく、もしくは直感的な勘や度胸を打ち消すブレーキ。
100%正しいことというのはそうそうない。
1度間違えたらそれで全て終わり、という機会もそんなにない。
KKDがこれからまた大事になってくると思う。
論理(頭)に振れて、頭を強くして、それを持って次は直感(心)に振れてくるんだろうと思う。
何となく。

ダメ。ゼッタイ。

最近周りを見ているとどうも、”正しいことをやる”から”正しくやる”にシフトしているような気がする。
勿論100%正しいことなんていうのはないのだけど、それでも”正しい”という表現を使うと、”正しいこと”を”正しくやる”ことが必要。
それが正しいことなのかどうかも不明確なまま正しくやってみたってその先そのままいったら効果的/効率的に失敗に終わる可能性は高い。全てがそうとは言わないが。
正しいことなのかどうかわからない状態で、その何かを正しくやろうとする。
ダメ。ゼッタイ。