What’s your Value ??

”君の価値って何なの??”
ちょっと前から新しいProjectに入った。
これまで経験したProjectの中で、おそらく最も柔らかい(曖昧な)Project。メンバーは自分を入れて2人。少なくとも今の自分にとってはかなりタフであり、ChallengingなProjectだ。
その中で自分の価値をClientに届ける。彼らにとってコストではなく投資でありたいし、自分の持てるものの全てを最大限使って…
で、何を持ってるの?
最大ってどこ?
上記もさることながらドラッガーの以下の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
●「知識労働者は知識を相手に伝え、相手がそれによって価値を生みはじめて自身が価値として認められる。」(何知ってようがそれが実際に価値にならなかったら意味ないよ。)
●「頭がいいこと、知識を持っていることと、組織に貢献できることの間に相関は殆ど無い。」(ただの物知りや考え好きじゃあ貢献できないよ。)
●「貢献に必要な能力とは知識やスキルではなく、一種の習慣に近いものである。」(小手先のスキルや知識じゃ貢献ってできないのよ。)
自分に求められているものを知り、それに集中する。
当たり前じゃん!と思っていたことがこうも難しいとは…(^^;)
張り合い(?)はあるけど。
何か大きいきっかけを掴みかけているような、崖っぷちに立たされているような…。
”What is your value?”
この問いの答えを考える前に、目の前にいるClientにとってのValueを考えなくては。それを提供するのに必要で、かつ自分が持っていないものは、どこからからか持ってくるか、自分の中で新しくつくればいいのだから。
それを届けるために必要な習慣が身についていないなら、これから始めるしかないのだし。それに(痛い程に)気付けたことも、自分にとって見れば大きな価値の1つだろう。

”知っていること”と”出来ること”の壁

最近とても強く感じる。この壁の存在。
ただ、気付く、よくよく考えてみると、自分が”出来る”と思っていたことが、やり方を”知っている”だけだったと思い知るとき、それは単に土俵が変わっているだけなのだ。
小学校のバスケのゴールでダンクを決められても、高校以上のバスケのゴールではダンクは出来ない。波のないプールですいすい泳げても荒波の立っている海ではすいすいは泳げない。バッティングセンターでは打てても実際の試合では打てない。1対1の喧嘩で勝てても1対多の喧嘩では勝てない。
前提が変わり、求められるものも変わっているのだ。
どうする?
GAPが何なのか(単に”出来ない”じゃなくて、出来る状態が何で、それに比べてどこが、どれだけ劣ってるのか。)をちゃんと自覚して(悔しがっても焦っても何も始まらないので。)それをリカバリーするためにどうすればいいのかを考えて、手を打つ。うまくいかないならなんでうまくいかないのかを考えて違う手でせめる。
GAPがあまりにも大きいなら、そのときは出来る状態を下げる。期待値の高さ、幅、いずれかコントロールする。
そそ。悔しがっても苛立っても焦っても。何も解決はしない。
視点を変えて、何を言っても相手から見たらそんなのは甘え。払うお金は代わらない。求める価値は代わらない。
壁を分解して、乗り越えられる高さにして超えながら、自分が超えられる壁を高くしていく。
いささか抽象的だけどそれだけだろう。
…すっげー悔しいんだけど…

手放すけど手放さない

手放す”けど”手放さない。手放す”から”手放さない。しっくりくる日本語を探しつつ更新。
これからしばらくはProjectの関係で毎週飛行機にのる。離着陸(特に離陸)時に揺れるとすぐにでも酔ってしまうが、それでも空の上というのは気持ちが良い。天気は絶対に晴れだし。
何があったのかは書かないのだけど、大きな学びがあった。自分が当たり前だと思いながらできていなかったこと。自分に足りないもの。(以下、おそらく当たり前なんだと思うことが続きます。)
●頭よりも優先すべきものがあるということ。
●アウトプットより優先すべきものがあるということ。
●自分のためよりも優先すべきものがあると言うこと。

頭よりも優先すべきもの。それは心だ。いかに広い知識も、深い洞察も、論理的なメッセージも、相手の心に響かねば、何らかの波紋を広げられねば価値は無い。知識は知識のまま終わり、洞察は洞察のまま終わり、論理的なメッセージは論理的なメッセージのまま終わる。
波紋を広げない。どこにも響かない。すっと消える。
局所的な知識であっても、決して深くは無い洞察も、論理的とは言えないメッセージも、相手の心に響いたとき、波紋を広げたとき、そこから最初は小さくとも何らかの活動、”うねり”が生まれる。種をまいていなければ、どれだけ土が豊かで、日光がに恵まれ、水を適切に与えることができたとしても芽は出ない。1つでも種が蒔かれた時、そのとき初めて芽が出る、花が咲く、実が実る可能性が生まれる。

アウトプットよりも優先すべきもの。それは人間から直接のインプット、他人の直接のアウトプットだ。相手の心が開いていなければ、耳と目がこちらに対して開かれていなければ、こちらからのいかなるアウトプットも意味を持たない。では、とこちらから相手の心を開こうとしても、耳と目をこちらに対して開かせようとしても、それで望む結果を得ることは難しい。
まずは相手のアウトプット、自分へのインプットを優先しなくてはならない。
相手のアウトプットを素直に、真摯に自分にインプットしていると、そして相手のアウトプットを助けるよう振舞っていると、徐々に相手はこちらを向き始める。そしてこちらに対して目であり口であり、心でありを開き始める。こちらのが相手に対して開いているからだ。そして開いた上で相手からのインプットを求めている、受容れてくれると知るからだ。
そうして相手のアウトプットを自分にインプットしているうちに、自然と相手は自分に対して心を開き、目を向け、耳を傾けるようになる。
自分のアウトプットはそのときでいい。

自分よりも優先すべきもの。それは他人だ。上の2つと同様。逆説的な言い方だが、自分を大切にしたいならば自分よりも他人を優先すべきだ。
自分の成長のために他人がいるわけではない。ただ、自分は他人の成長のためにそこにいる。そうやって他人の成長のために全力を尽くす過程で、結果として自分というものは成長するのだ。
って言うことを頭ではわかってたのだけど…実践なんてできていなかった。
ロジカルに物事を詰めて、自分のアウトプットは結論から簡潔に構造的にメッセージする。自分の成長のための努力は面白いし、そこに対して労力を惜しむつもりはない。
全て”自分”。
本当に自分を大切にしたいなら。それよりも大切にすべきものがある。
…一朝一夕でできるものでもないと思うのだけど、できるようになりたいと思うのだ。そして今、そうなることが求められているのだ。

最高の週末

この週末は実家の方面から友達が遊びに来た。初めて家に遊びに来てくれたので部屋を掃除して出迎え。
着いたのは土曜日の午前5時頃(^^;)金曜夜、仕事を終えてから車で東京まで来たのだ。その夜は布団を敷いて、友達がお土産に持ってきてくれたヴィンテージ・ワインで乾杯。写真は違うけどこれがまた美味しかった(^^)そしてあっという間に眠りに着く。
土曜日は昼前に起きて家の近くにある喫茶店”駱駝”へ。検索してもぱっとしたページが見つからないためリンクは割愛。これまででおそらく一番美味しいコーヒーを飲みながらマスターと色々と会話。面白く、また奥の深い時間を過ごした(コーヒーは美味しい上に安い)。
その後、友達と合流のために表参道へ向かう。そしてDragon Fly Cafeにてランチを済ませてぶらぶら。美容院を終えた友達と合流してなんとなーくコム・デ・ギャルソンへ。
おすぎかピーコに出くわす。
初めて本物を見たが、端的に書くと、小さい、おなかが出てる、すっぴんだと肌が荒れてる。…そしてどっちなのか(おそらくおすぎ)わからない。
その後、同じく表参道のキル・フェボンにてタルトを食べる。京都の三条にもあり、一度か二度言ったことがあったが東京では初めて。おいしいタルトを食べながら込んでいる中馬鹿話にはなを咲かせる(^^;)
その後散歩がてら渋谷へ移動l、色んな店を適当に見ながら。そして夜ご飯は銀座の”やまと”へ。豚料理を堪能(^^)特に、薬膳不老長寿鍋は本当に美味しい。他のメニューとは別に、結局6人で5人前を完食。ほんっと美味しい(^^)
そして、ひょんなことから、中学の友達がマスターをしている白金のバーへ移動。散々飲み食いしてきた(^^;)…申し訳ない(→友達)。そして写真はそのときに創ってもらったフローズンカクテル。美味しい。
散々のんでしゃべって、楽しい時間を過ごした。そしてひょんなことから将来についての議論へ。といってもマスター(中学の友達)と自分。お酒のせいだろうか、友達の話を聞いていて以下のように感じてついついきついことを言ってしまった。
・敬語で話す(なんで昔からの友達なのに商売口調なんだよ!)
・お金の話ばかり(お金の前にビジョンだろ!)
・具体的な話が無い(お客さんの投資も何も、その前にビジョンだろ!)
・友達と比較してものを言う(何のために比較してんだよ!)
きついといいっても言ったのは要するに一言。
”で、結局何のために何がしたいの?”
手段の話は散々するし上記の通りだけど、目的って何よ?という1つだけ詰めた。
それが無い、ひとりよがりのHowに終始した話って聞いてて腹が立つので(よってたからかもしれないし、もしかしたら自分に対する苛立ちもまざっていたかもしれないけども)
友達マスターも酔っていたからか、ちゃんとした議論にはならず。多少の後悔もあるが言ってよかったと思っている。ビジョンが無いと、Why?とWhat?っていうのが明確じゃないと自分的には×だと思ってるので。
にしてもお世話になった。美味しいお酒と手料理を堪能してきた(^^)
って帰ったのが日曜の朝の4時半。一人始発で帰して全員就寝。
昼に起きて浅草観光へ。といっても浅草寺を見ただけ。以前Blogで紹介した亀十のどら焼きと井泉のとんかつを食べて帰る。
そして友達二人はまた車で去っていった。
久しぶりにずーっと笑っていた土日だった。(あ、違う。バーでむかっとして議論(口論??)していたのだった(^^;))
大切なものを取り戻せたような気がするし、バーのマスターの友達から学べたことも大きい。本当に有意義な週末であった。

会話にはいつでも相手がいる

何を考えているのか、真意が見えない人がいる。どういう意図でその言葉を発しているのか、その裏にある思考の流れが見えない人がいる。本人が隠しているのか、隠すつもりが無くても結果として見せないようになってしまっているのか、それとも自分に相手の意図を汲む力が無いのか。(少なくとも真意が見えない、と思っている時点で、見ようと言う意識ははたらいているはずだが)
こういう人とのコミュニケーションというのは疲れてしまう。何を考えているかわからない上、確認しようにもどうにも相手の思考プロセスをほぐすことができないから。そしてこれは自分の反省点だが、自分として一貫性が感じられない、と判断すると苛立ってしまう。なぜこれまでの発言や行動の流れから、今それが言うのか?そう動くのか?と問い詰めたくなってしまう。
そんなときは相手に囚われず、自分のスタンスを意識してぐっと腹に据える。
そして相手の目をじっとみて、ゆっくりと正直に自分の考えを話す。

往々にして、人が苛立つ場合は相手を見ていない場合が多いと思う。相手に一旦苛立つきっかけをもらったら、後はそれを自分の頭の中、心の中で育てることに集中してしまう。その間相手とのコミュニケーションのパスを切ってしまう。するとパスを切られた相手も同じ事をし始める。
お互い会話を交わしているものの、それは怒りを育て、相手を攻めるための栄養を得るための会話であり、決して健全なコミュニケーションにはならない。
そういう時は会話をちょこっとでも(意識的に)とめて、自分の内側を整理してみる。草抜きだ。疎経ちかけていた自分の中のイライラの草を抜いて、整地する。自分のスタンスを固める。
そして相手の目を見る。自分のスタンスを固めると相手がどんな目つきでいても優しく、じっと相手の目を見ることができる。(いや…相手にもよると思いますよ。勿論。例えば…(略))
後は自分のスタンスに忠実に相手にゆっくりと正直にメッセージを届ける。
相手の目を見ることで、自分がどういう相手と話しているのかを絶対に意識できる。その結果、怒りや苛立ちといった自分の内側に目を向けて育ててしまうことを防ぐことができる。
目を見られた相手は目を見られたこと、そしてそらされないことをすくなからず意識する。それが相手が相手の中で怒りや苛立ちを育ててしまうことを防ぐことができる。
そして、それらが育たなければ自分の中の地面はきれいなままでいられる。整地する必要なく、自分のスタンスで相手のメッセージを受容し、相手にメッセージを伝えられるようになる。
まだ検証不足だが、実践してみるとうまくいった。
相手が何を考えているかはまだわからない。疲れているときや自分が安定し切れていないときはネガティブに解釈してしまうこともある。
そんなときは目を見て話す。
キレイに整理された地面には、そう簡単にごみは落とされない(われ窓理論?)怒りの芽の栄養になるような。
*実践してみると人の目を見て話すことがいかに気持ちがいいか分かります(^^)