”知っていること”と”出来ること”の壁

最近とても強く感じる。この壁の存在。
ただ、気付く、よくよく考えてみると、自分が”出来る”と思っていたことが、やり方を”知っている”だけだったと思い知るとき、それは単に土俵が変わっているだけなのだ。
小学校のバスケのゴールでダンクを決められても、高校以上のバスケのゴールではダンクは出来ない。波のないプールですいすい泳げても荒波の立っている海ではすいすいは泳げない。バッティングセンターでは打てても実際の試合では打てない。1対1の喧嘩で勝てても1対多の喧嘩では勝てない。
前提が変わり、求められるものも変わっているのだ。
どうする?
GAPが何なのか(単に”出来ない”じゃなくて、出来る状態が何で、それに比べてどこが、どれだけ劣ってるのか。)をちゃんと自覚して(悔しがっても焦っても何も始まらないので。)それをリカバリーするためにどうすればいいのかを考えて、手を打つ。うまくいかないならなんでうまくいかないのかを考えて違う手でせめる。
GAPがあまりにも大きいなら、そのときは出来る状態を下げる。期待値の高さ、幅、いずれかコントロールする。
そそ。悔しがっても苛立っても焦っても。何も解決はしない。
視点を変えて、何を言っても相手から見たらそんなのは甘え。払うお金は代わらない。求める価値は代わらない。
壁を分解して、乗り越えられる高さにして超えながら、自分が超えられる壁を高くしていく。
いささか抽象的だけどそれだけだろう。
…すっげー悔しいんだけど…