会話にはいつでも相手がいる

何を考えているのか、真意が見えない人がいる。どういう意図でその言葉を発しているのか、その裏にある思考の流れが見えない人がいる。本人が隠しているのか、隠すつもりが無くても結果として見せないようになってしまっているのか、それとも自分に相手の意図を汲む力が無いのか。(少なくとも真意が見えない、と思っている時点で、見ようと言う意識ははたらいているはずだが)
こういう人とのコミュニケーションというのは疲れてしまう。何を考えているかわからない上、確認しようにもどうにも相手の思考プロセスをほぐすことができないから。そしてこれは自分の反省点だが、自分として一貫性が感じられない、と判断すると苛立ってしまう。なぜこれまでの発言や行動の流れから、今それが言うのか?そう動くのか?と問い詰めたくなってしまう。
そんなときは相手に囚われず、自分のスタンスを意識してぐっと腹に据える。
そして相手の目をじっとみて、ゆっくりと正直に自分の考えを話す。

往々にして、人が苛立つ場合は相手を見ていない場合が多いと思う。相手に一旦苛立つきっかけをもらったら、後はそれを自分の頭の中、心の中で育てることに集中してしまう。その間相手とのコミュニケーションのパスを切ってしまう。するとパスを切られた相手も同じ事をし始める。
お互い会話を交わしているものの、それは怒りを育て、相手を攻めるための栄養を得るための会話であり、決して健全なコミュニケーションにはならない。
そういう時は会話をちょこっとでも(意識的に)とめて、自分の内側を整理してみる。草抜きだ。疎経ちかけていた自分の中のイライラの草を抜いて、整地する。自分のスタンスを固める。
そして相手の目を見る。自分のスタンスを固めると相手がどんな目つきでいても優しく、じっと相手の目を見ることができる。(いや…相手にもよると思いますよ。勿論。例えば…(略))
後は自分のスタンスに忠実に相手にゆっくりと正直にメッセージを届ける。
相手の目を見ることで、自分がどういう相手と話しているのかを絶対に意識できる。その結果、怒りや苛立ちといった自分の内側に目を向けて育ててしまうことを防ぐことができる。
目を見られた相手は目を見られたこと、そしてそらされないことをすくなからず意識する。それが相手が相手の中で怒りや苛立ちを育ててしまうことを防ぐことができる。
そして、それらが育たなければ自分の中の地面はきれいなままでいられる。整地する必要なく、自分のスタンスで相手のメッセージを受容し、相手にメッセージを伝えられるようになる。
まだ検証不足だが、実践してみるとうまくいった。
相手が何を考えているかはまだわからない。疲れているときや自分が安定し切れていないときはネガティブに解釈してしまうこともある。
そんなときは目を見て話す。
キレイに整理された地面には、そう簡単にごみは落とされない(われ窓理論?)怒りの芽の栄養になるような。
*実践してみると人の目を見て話すことがいかに気持ちがいいか分かります(^^)