肩の力が抜けたとき

肩の力が抜けたとき、ふと目の前が開けるような、ふわりと今までできないような気がしていたことができるような、そんな感覚になる。そしてそういうときは結果としてできている。ディスカッションのリードにしても、タスクの割り振り&指示にしても、他チームとの調整にしてもClientとの交渉にしても。

僕が持っているレンズは物事を難しく映すのだろうか。そして、そのレンズを、外そう外そうととして結果として別のレンズをつけてしまうのではなく、外そうという気もなく、結果としてふと外れたときに(=肩の力が抜けたとき)ありのままの現実を受け入れることができ、その現実に対してありのままの自分で対応できるようになるのだろうか。

上に書いたような、僕が今まで難しい・タフだ、と思っていたことは実は簡単なことだったのではないだろうか。いろいろな本から頭で吸収した文字とイメージを辿って現実に反映させようとするのではなく、それらを吸収してきた等身大の自分で現実を受け止め、現実に答える。何も背伸びをすることはない。そして自分が背伸びをしているのではないかと感じる必要もない。ただ自分でいればいいんじゃないだろうか。そして、そのただの自分を高めることこそが成長なのではないだろうか。

何が言いたいのか。

肩の力が抜けたときに等身大の自分が出てくるということ。そしてその自分は背伸びをしている自分よりも往々にして心は静かにあたたかく、そして広く、頭は冷静で何事にも動じないのだということ。その状態の自分が結果として高まっていることが成長であるということ。

で、その自分は肩の力を抜こうとして、その為に他のところに力をいれる結果では得られないということ。(結果としてそれでは肩の力は抜けないということ)

具体性に欠けるけど、こんなことを考えた。こんな自分で将来を描き、方向を定めて進むことが大切なのだと思う。なぜなら、一番頭に書いた”結果としてできている”と自分が感じる理由が、背伸びをすることを結果としてやめたことによって、”できている”のレベルが下がっているのだろうから。

本当にレベルは下がっている?どんなレンズで物事を捉えている?

こういうことを考えている限りはわからないだろうし、つけている何かしらのレンズはとれないだろう。

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