うわべだけの優しさ

うわべだけの優しさを持って人に接することは僕はとても失礼だと思うし、有益なことはことは無いと思う。
「自分は人に優しくしている」と自分に言い聞かせる材料ができるという意味で短期的且つ自己中心的な益はあるかもしれないが(そんなもの益じゃないよ、と最終的に思うので、有益なことは無いと)。
”うわべだけ”という言葉がつくと、その後に続く言葉の逆、即ち本心というものを残酷に伝えているような感がある。
”うわべだけの優しさ”はおそらく”うわべだけ”だなと相手に悟られた時点で、残酷にその冷たさを伝える手段になる。
”うわべだけの敬意”はおそらく”うわべだけ”だなと相手に悟られた時点で、残酷にその軽蔑(是が反対の言葉だっけか?)を伝える手段になる。
そんな感じだ。
僕はどうも物事をクリティカル(批判的)に見てしまう。
主張の穴を探すわけではないけど、そこにモレとダブりがないか、と何のためにそうしているのか、というのを見てしまう。
いや、見てしまう、というと見ることが悪いような感があるけどそうではない。
問題はその後だ。
それを指摘する。それで終わってしまうのだ。(指摘のSo what?のリードが弱い)
…建設的なコミュニケーションではない。
人の意見に依存しているからだろう。
僕は知っている。
自分の腹に落ちたロジックに従っているときの人の強さとそのリーダーシップの威力を(そして、腹に落ちてないロジックに従っている人の弱さと脆さも)。
必要なのは指摘したことに対しての答えが無いこと、答えが的外れであることを我慢しながら”うわべだけの”優しさで包み隠して自分の主張を相手に渡すことじゃない。
相手に伝わるまでコミュニケーションを続ける力と、そのコミュニケーションの結果に自分が責任を持つんだ、という責任感、そしてリーダーシップ(他への影響力)だろう。
歳なんか関係ないじゃない(^^)
それに今は人に依存して甘えてる時間は無い。